強い言葉
ここ数日マスコミは山口県光市で起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審のニュースを伝えています。
私は事件については詳しく知らないし、まして裁判を傍聴したわけでもないので、マスコミ報道を超えるようなことは知りません。
この事件が少年(犯行当時)の死刑判決について議論が起きています。
私はごく自然な一般的な感情として、少年に対して「死刑やもなし」という思いを持ちます。恐らく多くの国民はそう思うに違いありません。
しかし事をややこしくしているのは死刑制度反対を叫ぶ弁護士団の登場で、真実と違うストーリーが法廷で語られている事に振りまわされている感があります。
最初に書きましたが、私はこの事件についてはマスコミ報道を超えることは知りませんから、「弁護団が描いているストーリー」という表現も真実については解りません。
とにかく死刑制度反対の弁護士団がどうか、真実はどうか と言うことはともかくとして、私は被害者の遺族である本村洋さんという人物に興味があります、興味と言ったら失礼になるかもしれませんが、あの人の言葉の強さに惹かれるモノがあります。
今夜のインタビューでも一言一言語る言葉に力があり、人を説得させる力があります。
少なくともカメラに斜に構えて自説を述べる弁護士より説得力があります。
何でこう力のある言葉が出るんだろう、考えるといくつかの事が考えられます。
当然ですが最大の要因は、亡くなった家族に対する強い思い、だと思います。
そしてその強い思いに一片の迷いもない、犯人に対する強い思いが一貫してる、この事だと思います。そして語っていることが彼の本心を語っている、あるべき姿に強引に持って行くような恣意的な発言でなく、心情を真っ直ぐに語っている。
聞く人間に素直に入ってくる、彼の言葉の強さに今夜もうなずいてしまいました。
もう少し個人的な感想を書くと、この事件とは離れますが、弁護士という人種の存在です。どうしても解らないのは「目的のためには真実も曲げる」としか考えられない論を展開する事です。
正義を貫く弁護士さんも世の中には多数おられますが、目的のために真実も故意に歪曲する弁護士さんも世の中には存在することを、私はたった4年の県議生活で経験しました。
公選法をよく知らないと言っておきながら、政務のための政治家の事務所は必要ないと 言い出す。しかも反田中派の県議だけ。
常識として考えれば信じられますか? こんな事。
きっとそう言う人は、「それは私の常識と違うと言う」のでしょう。
良心がとがめないことが不思議でなりません。弁護士である以前に一人の人間として。
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コメント
はじめまして。
「RSD友の会」というブログを書いております「TOM」と申します。
そもそも、この事件は、事件の報道を聞いた当初から吐き気を催すほど、残虐な事件でした。
確かに、えん罪が存在するために、死刑の是非が問われることがあるのもわかります。
しかし、こういった人間性のかけらも無いような言動をする「人間」を、現実的にどうやって更正できるのか、甚だ疑問です。また、当初、知人に送ったという手紙の内容も、被害者や遺族を冒涜する内容であったと聞いています。
私は、職場や、家族と、この事件についても話しますが、「やはり、死刑は当然ではないのか・・・・。」という意見が多いように思います。中には、「こんな人間を、死刑しなければ、我々の税金で養っていくことになるわけでしょう。おかしいですよね。何回死刑にされても、いいくらいの犯罪だ」という強い意見を言う方もいました。
過去の未成年の事件で、死刑判決があった事件のことをのせているHPがありました。それを見ると、もう、人間性の有無をも疑問視せざるを得ないような残虐な事件があることも知りました。
そして、「どらえもん」までも登場させての法廷戦術(?)は、被害者や遺族への激しい冒涜だと感じました
投稿 TOM | 2007年6月29日 (金) 12時35分
こんにちは。
弁護士は被告の刑を軽くするためにあらゆる手段を採る、というのが使命だと思います。さらにマスコミは刺激的な一面、大衆が興味を惹くような出来事を重点的に私論を交えて断片的な報道をするため何が真実なのかを的確に伝えているとはいいきれません。
死刑制度については様々な見解があります。死刑を続けていても凶悪犯罪は一向に減らない、ということも言われています。「罪を犯した人間ではなく罪そのものを憎む」というのもよく聴く言葉です。
裁判官はマスコミや大衆がどう言おうと、どう騒ごうと「真実はどこにあるのか」という一点を見つめて真理を追究していきます。
我々も真実はどこにあるのか、そして死刑は必要なのかどうか、という論点の方に重みを置くべきであろうと思います。被告がどのような人間でどう考えているかなんて、弁護団すらホントの所、知らないのではと思いますし、弁護団の真意がもっと深い所にあるのかもしれません。オウムの教祖の弁護団の弁護士達は、彼らそのものがある意味被害者と言えるほど哀れでしたし。。。
投稿 たぬ | 2007年6月29日 (金) 20時22分
TOMさん たぬさん コメントありがとうございます。
この問題の大きさがブログのアクセス数という形で現れていました。
私はこの問題の弁護士の方針(弁護士は示唆していないと言うけど)に対して国民は大きな憤りを感じているのです。すでに最高裁判所でも限界を指摘され差し戻されたのですが、やはり少年は本村さん亡くなった奥さんそしてお子さんに対し謝罪を繰り返すしか方法はなく、それでも死刑か?と訴えるのが人権派弁護士の皆さんの戦略だと思っていましたが、差し戻し控訴審が決定したときからストーリーはそうではなかったようです。
この状況にややもすると国民があまりにも情緒的な判断をしすぎるとご指摘の向きもありますが、それは心情として仕方ないと思います。それよりも裁判に関係する司法関係者の皆さんがこういった国民感情の中どう判断されるかが興味があります。もちろん国民裁判員制度もまもなく始まります、司法があまりにも国民感情と遊離している事が原因の一つで始まる制度だけに、この先に大いに関心を持ちたいと思います。
投稿 清水 洋 | 2007年7月 3日 (火) 16時35分