今日午前中あるところで父の時からお世話になっている方に偶然にお会いしました。
久しぶりでしたので挨拶をしたらその方から「いつもネット見てますよ」と言う嬉しい言葉を聞きました。久々に上伊那選挙区の有権者の方から「見てるよ」と言う事をお聞きしました。時には“くさる”ときもありますが続けて良かったと思いました。
このブログを読まれている方の多くは長野県職員もしくは関係する皆さんだと思います。でも私が一番読んで欲しいのは正直に言えば地元の皆さんです。
しかしだからといって地元のことだけ書けばいいと言うことではなく、長野県全体 時には国全体のことも書かなければならないと思ってます。
そこでちょっと考えたのが、県会議員て改めてどういう存在なんだろうと言うことです。
県議の場合選挙は選挙区毎に行いますから、選挙の時には当然地元の事を中心に訴えます。しかし、当選すれば県議ですから県全体のことを考えます。
これって今国会で焦点となっている暫定税率(ガソリン税)と本質が同じ様な気がします。
と言うのは、自民党も、民主党も、その他の野党もみんな「真に必要な道路は造る」と言います。野党は道路に特定される暫定税を廃止すると言います。
廃止大いに結構です、しかし廃止して仮に同額を一般財源とするならば、ガソリンは安くなりませんし、道路関係予算は福祉などの予算が足りないので、そちらに回しますから削られます、従って道路の建設は大きく遅れます。
しかしそれでも野党の皆さんは共産党まで、「真に必要な道路」は造ると言います。
「真に必要な道路」という曖昧な言い方でお茶を濁してますが、特定財源反対を唱える議員さん方が「私の地元は新たな道路は造りません」とでも言い出せば道路特定財源の廃止 は説得力がありますが、決してそれは言いません。議員さんには選挙がある限りそれは言い出せません。少なくともやり方が姑息です。
しかし今の日本の800兆円とも国・地方全体で1100兆円とも言われる財政赤字は実はこの構図によって生み出されたのではないかと思っています。
つまり誰もが願いたいのは「低負担 高福祉」です。 つまりできるだけ負担をしないで高福祉制度に頼りたいと思うのは当たり前です。
しかし北欧を見れば解るように、実際はそう言うわけには行きません。高福祉は高負担でしかまかなえません。もしアメリカのように医療保険制度も完備しないような自己責任で福祉をまかなうなら低負担でもちろん国はやっていけます。
問題はそれは政治はどのように国民に理解を得るかです。つまり低負担=低福祉 小さい政府と言うことになります、高福祉=高負担 大きな政府になります どちらにしますかと言う選択です。
日本の国民は戦後一貫して高福祉を願ってきました。しかし政治家は、では高負担をお願いしますとは言いませんでした。言っても例えば消費税(付加価値税)の時はあっさり与党は惨敗でした。負担を言い出せば選挙に負けます。ならば誰も文句は言わない「国の借金」という形にしてしまえ! と言うのが今の日本の財政赤字の基本構造です。
もちろん要らない箱物を作ったとか、使わない道路を造ったとか言うでしょう、でもそれもこれも社会福祉に資するものであると考えれば、少なからず形の違う福祉政策です。
防衛費がムダというナンセンスな考えは別として、どの政党も「皆さんが求める高福祉社会は高負担社会でもあるのです」という主張を選挙時に訴えたことを見たことがありません。みんな当選したいばかりに都合が悪いことは言いません。
極論すればその“つけ”が 財政赤字となって将来の日本に暗雲をたれ込めているのです。
受益すれば負担は必要。
ものを買えばお金は払いますが、福祉はお金払わなくても受けられる、そんな事はあり得ません。どこかで誰かが負担しているのです、今までその比率が小さかったのは、それは負担の先送りしているだけだということを国民に気づかせ、堂々と国民に負担をお願いする政治家こそが真に責任ある政治家だと言うことに気がつかないといけません。
負担を嫌って、それを言い出す政治家を応援しない、そんなエゴがまかり通る選挙ばかりしているから、結果日本の政治は2流、いや今や3流だと言われるのではないかと思います。
耳障りの良いことだけ言う政治家は信用しない、これができれば政治家も政治も一流になるとお思います。全て良いとは言えないヨーロッパですが、今はそういう制度になっていると言うことは、高負担を訴えて勝った政治家がいると言うことではないかと思います。
すなわち高負担を国民も了解したと言うことです。
私も数年後にはもしかしたら選挙をする立場になるかもしれません、その時それを言えるか?自信がありません。正論を説いても負けてしまえば 負けは負けですから。でもその正論が通用する社会を作るのも政治の仕事だと思います。
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